曹操の死

関羽は死後も魏呉両国を震え上がらせました。
関羽を討たれた劉備の怒りがどちらかに向けられるのを恐れたからです。
例え蜀の軍が小勢だとしても、まだ蜀の五虎大将軍の四人までもが健在で、
さらに当代の天才と言われる諸葛亮孔明が指揮をとれば、
大打撃を被り蜀呉、あるいは蜀魏が共倒れになるかも知れない状況でした。
呉は関羽の首の塩漬けを魏に送り、責任回避を計りましたが
魏は、関羽の霊を国葬をもって弔う事で、呉の計略を回避しました。
勿論劉備も、呉の計略を見抜けない程の人間ではないので、
逆に怒りを募らせ、呉とは天を倶に戴かない事を決意しました。

関羽の死後国内では多くの出来事が起こりました。
呉の呂蒙が血を吐いて倒れ他界。
関羽の愛馬、赤兎馬がまぐさを食べなくなり死亡。
そして、最大の事件は魏王曹操が脳腫瘍によって倒れた事でした。
彼は以前から持病の頭痛を患っていました。
特に死の直前は関羽の霊やこれまでに殺害して来た皇后ら一家等の
霊達に襲われると言う幻覚をみる様にまでなりました。
そして、我が子曹ヒを王にせよと言う遺言を残し、この世を去りました。
享年六十六歳の生涯でした。

曹操の死後、息子の曹ヒは先代に輪を掛けて、皇帝劉協を蔑ろに
していました。そしてついに劉協に退位する様求め、
自分が皇帝に即位し大魏を建てる事を宣言しました。
関羽に続いて今度は漢朝が滅びた事を知った劉備は
泣き崩れ益々引き篭もりがちになりました。
しかしこの事態を孔明らは見過ごせず、漢室の皇統を絶やさない為に、
又、蜀の国力を示す為に劉備に皇帝を名乗らせようとしました。
部下の進言をひたすら断った劉備でしたが、
孔明が偽りの病気になって、劉備の皇帝になる発言を聞き出す計略によって
上手く劉備は騙され、孔明の意見を取り入れて大蜀の皇帝となる事を決意しました。

劉備は関羽の死を忘れていませんでした。
翌年南蛮軍五万と劉備軍五万の兵を用いて雪怨を晴らす為に呉に侵攻するのでした。
しかし、呉侵攻を前にして思いがけない事件が起こりました。
部下の張達・范彊に張飛が暗殺されたのでした。
関羽の死後、張飛は関羽を殺された悲しみと、呉に復讐が出来ない苛立ちで
酒を飲み続ける毎日となっていました。そして次第に回りの人間に些細な
事でも当り散らす様になりました。
その中劉備は呉侵攻を宣言しました。
真っ先に張飛は軍の手勢を集め、三日以内に自分の手勢全員に白い直垂を付けさせる様に
張達・范彊に命令します。
しかし張達・范彊は三日以内にだなんて不可能だ。
反論しました。
張飛の逆鱗に触れた二人は三十杖の刑に処されました。
その場は直垂を集めると言った二人でしたが、やはりそんな事は不可能でした。
その為二人は張飛を暗殺し、呉に下る事を決意したのでした。

呉侵攻

劉備は孔明らの言を聞き入れずに呉を侵攻しました。
蜀が呉と戦う事は国益としては大損な事でした。
呉との同盟を破棄した事で、パワーバランスは5対5から
8対2と言う劣勢に陥りました。
その中で劉備は呉に攻め入ったのでした。
初戦は関羽の息子関興、張飛の息子張包らの活躍によって大勝利を収め、
破竹の進撃を続けていました。
余りの劉備軍の怒涛のに都の建業には続々と早馬が飛んできました。
「このままでは都どころか、呉の存続が危ない・・・。」
そこで、孫権は劉備と和睦し、荊州を蜀に渡し以前の状態に戻そうとしました。
勝ち戦と言う事もあり勢い付いた劉備は、この言葉を跳ね除けました。
「何と言う復讐心じゃ・・・。」
と孫権は恐れていました。
思えばこの時の劉備は勝気過ぎました。
この気の強さが後の大敗を生み出したのでした。

蜀呉の死闘・敗走

蜀軍は一日百里と言う強行軍によって進軍をしていたので、
十万の大軍も伸びきり、極めて細い線になっていました。
そして時は六月、真夏の日は木々や蜀兵の喉を枯らしていました。
蜀は炎天を避ける為に山中に陣屋を築きましたが、
それが命取りになりました。
陸遜は強い風が吹く日を待って、枯野に火を付けたのでした。
次々と蜀陣に燃え広がり、逃げ惑う蜀兵は呉兵に討ち取られ、
殆どの将兵は焼け死ぬか潰走しました。
この戦いは蜀兵も呉兵多くの戦死者を出し、
互いに益の無い戦いになりました。
特に初戦で黄忠を失い、又火計によって蜀は特に被害が大きかったのでした。

劉備の死

東征を失敗した劉備は、精も魂尽き果て白帝城に逃げ込みました。
関羽の死、張飛の死、黄忠のあっけない最後から、天命と言う物を考える様に
なりました。
そして自分の寿命を悟り、嫡子劉禅を成都に残し、孔明と劉永、劉理を
白帝城に呼び寄せました。
自分の遺言を孔明と息子に告げる為でした。
まず劉備は趙雲ら自分に尽くしてくれた将軍達に礼とお別れを言いました。
そして次は「我が子を頼む。」と言うと誰もが思いました。
劉備は孔明に告げました。
「もし我が子劉禅に、皇帝としての資質があるならば宜しく補佐してやって欲しい。
 だがその資質が無かった場合、お前が私に取って代わって皇帝になってくれ。」

孔明が感激したのは言うまでもありません。
「臣下が君主に仕えるのは当然の事で御座います。」
劉備が孔明に寄せた信頼は絶大な物でした。
「関羽と張飛が早く来い、早く来いと急かしておるわ。」
劉備はこの世で最尊敬し信頼した男の腕の中で死んでいきました。

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