※三国志演技を元にして話を進めています。
赤壁の大敗
玄徳は孔明を得て曹仁や夏候惇、総勢10万の軍団を破る事に成功しました。
(水を得た魚、水魚の交わりと言う諺はここから生まれました。
又、新参の将であった孔明は旗揚げ時代からの古参である張飛に、
水に例えられ、一時は疎まれていました。)
しかし、曹操が直々に南征軍を起こし、その大軍に敵わないと見ると
劉備軍は南に逃げ込みました。
南征軍は総軍八十五万。号して曹軍百万。
曹操に唯一対抗し得る勢力、呉と連合して曹操の野望を打ち砕き、
劉備を助ける為でした。
劉備は当時国と言う国を持っていなかった為、魏の領地である南群の
領地を玄徳の物にすると言う目論見もありました。
その中で孔明は単身呉に乗り込み、孫権や諸将を説き伏せました。
呉は開戦か降服かで散々議論をした挙句、魏に対抗し得る策を
持ち合わせていなかったので、下手をすれば玄徳の将である
孔明を手土産に、魏に下る危険性もあったのでした。
劉備軍は呉と共同作戦を取る事になり、周瑜は火計をもって魏の船団を
焼き払う事を考えていましたが、ただ東南の風を欠いていたのでした。
その時孔明は自分が東南の風を起こすと言い出しました。
そんな事は不可能だ。鬼道でもなければそんな事は出来はしない。
と言いましたが、実際に辰巳風は吹いたのです。
孔明は秋のある日になると東南の風が吹く事を知っていたのでした。
かくしてホウ統の連環の計も成って、多くの魏兵は長江に沈んでいきました。
その数は二十万とも三十万とも言われています。
曹操は敗走に敗走を繰り返し、南に持つ全ての領地を失い北方に逃げ帰りました。
漢中王劉備
先頃の大勝によって荊州を占拠した劉備は、勢いに乗って蜀を平らげ、
曹軍の漢中も手に入れていました。
又、黄忠や馬超と言う大将を手に入れていました。
黄忠は六十歳と言う老将でしたが、とても勇猛で知恵もあり大義を大事にする人間でした。
蜀を攻め入る際には功を焦った魏延を助け、多大な活躍をし、
漢中占拠の際にも敵の大将夏候淵を討ち取りました。
又馬超は、夷勢に神威大将軍として敬われ、北方に睨みを効かせていました。
後年の魏軍五路大侵攻の際には、馬超を同族の為親近感もあり、敵にする事を恐れた
夷勢は馬超の味方をし、魏軍を軽く平らげました。
劉備は諸将の薦めによって、魏に対抗する為漢中王を名乗り、
関羽、張飛、趙雲、馬超、黄忠は五虎大将軍の地位を得ました。
思えばここが蜀の限界でした。
関羽の死
赤壁の大勝によって多くの領地を得た蜀でしたが、
呉は対照的に得る物が少ない戦いでした。
その為、本来荊州は呉の物であるとし対立して行きました。
呉の大都督、呂蒙は意外に関羽の防御が完璧である事に愕然としました。
しかし、配下の陸遜は敵の襲来を知らせる狼煙を防ぐ為に、
拠点を個々に叩き、ついに関羽に知られる事無く荊州に潜入し、
関羽を麦城に追い詰めました。
ここで関羽の荊州兵の士気を下げる為に、兵らの肉親達を呼び
呉への帰順を呼び掛けさせました。
兵の大半を失った関羽は、援軍を求める為に上庸の孟達の元に使者を
出しますが、「盃一杯の水で大火は消せぬ」として出兵を断りました。
いよいよ進退極まった関羽は、夜に呉軍が寝静まった所を見計らって、
脱出しようとしましたが、それも陸遜の考えの内にあり、
部下は次々と捕らえられ最後は関羽親子も捕まってしまいました。
呉候は関羽の勇猛さや智謀をわ知っており、彼を部下にしようとしましたが、
「忠義の臣は二君には仕えぬ物よ」と言い頑として受け入れませんでした。
享年58歳。事実上彼の死によって蜀の天下統一は無くなったと言われる程の
一大事件でした。
赤壁の大敗
玄徳は孔明を得て曹仁や夏候惇、総勢10万の軍団を破る事に成功しました。
(水を得た魚、水魚の交わりと言う諺はここから生まれました。
又、新参の将であった孔明は旗揚げ時代からの古参である張飛に、
水に例えられ、一時は疎まれていました。)
しかし、曹操が直々に南征軍を起こし、その大軍に敵わないと見ると
劉備軍は南に逃げ込みました。
南征軍は総軍八十五万。号して曹軍百万。
曹操に唯一対抗し得る勢力、呉と連合して曹操の野望を打ち砕き、
劉備を助ける為でした。
劉備は当時国と言う国を持っていなかった為、魏の領地である南群の
領地を玄徳の物にすると言う目論見もありました。
その中で孔明は単身呉に乗り込み、孫権や諸将を説き伏せました。
呉は開戦か降服かで散々議論をした挙句、魏に対抗し得る策を
持ち合わせていなかったので、下手をすれば玄徳の将である
孔明を手土産に、魏に下る危険性もあったのでした。
劉備軍は呉と共同作戦を取る事になり、周瑜は火計をもって魏の船団を
焼き払う事を考えていましたが、ただ東南の風を欠いていたのでした。
その時孔明は自分が東南の風を起こすと言い出しました。
そんな事は不可能だ。鬼道でもなければそんな事は出来はしない。
と言いましたが、実際に辰巳風は吹いたのです。
孔明は秋のある日になると東南の風が吹く事を知っていたのでした。
かくしてホウ統の連環の計も成って、多くの魏兵は長江に沈んでいきました。
その数は二十万とも三十万とも言われています。
曹操は敗走に敗走を繰り返し、南に持つ全ての領地を失い北方に逃げ帰りました。
漢中王劉備
先頃の大勝によって荊州を占拠した劉備は、勢いに乗って蜀を平らげ、
曹軍の漢中も手に入れていました。
又、黄忠や馬超と言う大将を手に入れていました。
黄忠は六十歳と言う老将でしたが、とても勇猛で知恵もあり大義を大事にする人間でした。
蜀を攻め入る際には功を焦った魏延を助け、多大な活躍をし、
漢中占拠の際にも敵の大将夏候淵を討ち取りました。
又馬超は、夷勢に神威大将軍として敬われ、北方に睨みを効かせていました。
後年の魏軍五路大侵攻の際には、馬超を同族の為親近感もあり、敵にする事を恐れた
夷勢は馬超の味方をし、魏軍を軽く平らげました。
劉備は諸将の薦めによって、魏に対抗する為漢中王を名乗り、
関羽、張飛、趙雲、馬超、黄忠は五虎大将軍の地位を得ました。
思えばここが蜀の限界でした。
関羽の死
赤壁の大勝によって多くの領地を得た蜀でしたが、
呉は対照的に得る物が少ない戦いでした。
その為、本来荊州は呉の物であるとし対立して行きました。
呉の大都督、呂蒙は意外に関羽の防御が完璧である事に愕然としました。
しかし、配下の陸遜は敵の襲来を知らせる狼煙を防ぐ為に、
拠点を個々に叩き、ついに関羽に知られる事無く荊州に潜入し、
関羽を麦城に追い詰めました。
ここで関羽の荊州兵の士気を下げる為に、兵らの肉親達を呼び
呉への帰順を呼び掛けさせました。
兵の大半を失った関羽は、援軍を求める為に上庸の孟達の元に使者を
出しますが、「盃一杯の水で大火は消せぬ」として出兵を断りました。
いよいよ進退極まった関羽は、夜に呉軍が寝静まった所を見計らって、
脱出しようとしましたが、それも陸遜の考えの内にあり、
部下は次々と捕らえられ最後は関羽親子も捕まってしまいました。
呉候は関羽の勇猛さや智謀をわ知っており、彼を部下にしようとしましたが、
「忠義の臣は二君には仕えぬ物よ」と言い頑として受け入れませんでした。
享年58歳。事実上彼の死によって蜀の天下統一は無くなったと言われる程の
一大事件でした。
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