天を倶に戴かず

2004年12月22日 読書
昨日に続いて三国志の見所を抜粋して行きたいと思います。

「我ら生まれた日は違えども、死す時は同じ日、同じ時を願わん」
――――劉備、関羽、張飛
桃園の誓いでのセリフです。
彼らの漢朝や大義、万民を思う気持ちは感動と言う言葉では表せません。
この時彼らは義兄弟の契りを交わし、実の兄弟以上の交わりをしました。
劉備は関羽が呂蒙に討ち取られた時、その死を悼んで七日七晩食も取らずに
泣き続けましたが、主君としてふがいないと、誰が謗る事が出来るだろうか。

「渡り鳥か。我々もあの鳥と同じ様なものだな、あっちへ行ったりこっちへ来たり…。
寂しき渡り鳥部隊か……」
――――劉備
功あるものの、その功を認められず。
劉備らは黄巾賊討伐において誰よりも大きい功績を残しましたが、
宦官に賄賂を贈る術を知らず、誰からも認められる事はありませんでした。
張飛は憤りを感じ、劉備らを雑軍と謗った董卓を斬ろうさえしました。

「治世の能臣。乱世の姦勇」
――――許劭
許劭が曹操を評したセリフ。
彼は天下の三分の二までも制した人物であり、
その行動は自分に従わない人間を粛清したり、
人物的には決して誉められない行動もして来たが、
覇道をただひたすら突き進む、英雄らしさが魅力の人物でした。
彼がここまでの大成功を築いたのは、若い時期の柔軟性や
敵の武将も許し仲間に引き入れようとする姿勢だったのだと思います。
柔軟性においては劉備、姿勢に置いては孫権、又その両方においてエン紹
より優れている人物でした。

呂布の末路

三国志序盤において、最衝撃的なシーンは呂布が捕らえられ討たれるシーンでした。
三国最強と言われた呂布の武力はあの張飛や関羽を軽くいなす程の実力で、
「人中の呂布、馬中の赤兎馬」と呼ばれる程でした。
それ程彼は自分の実力に自信があり、
虎牢関の戦いにおいては、公孫サンの右の軍を自分の部下に任せ、
自分は左の軍に単騎で突入する有様でした。
しかしその呂布も、身から出た錆によっていつしか女以外の誰も信用せず、
また信用されない人間になりました。
まず呂布は、自分の養父丁原を董卓に仕える為に斬り、
貂蝉を奪う為に主君の董卓を斬り、そんな呂布を暖かく迎えてくれた
劉備を裏切り、劉備を真の主君と考えていた陳珪に城を奪い取られ、
下ヒに落ち延び立て篭もりましたが、最後は自分を見限った部下に
よって裏切られ、この世を去る事になるのでした。

思えば彼の人生は時代がそうさせたとは言え、裏切りの連続でした。

孔明の出庵

劉備は自分達の軍に軍師と言う存在がいない為、
負け続けている事に薄々と気付いていました。
曹ヒに後年評されていた様に、彼は戦が下手な人物だったので、
相手が策を用いって来る戦はその殆どにおいて敗北していました。
その為彼は臥竜と言われる諸葛亮孔明を三度訪れました。
(臥竜とは地に伏す竜の事であり、平時の時は沼に息を潜めていますが
一度天の時を得ると、空まで駆け上る人間の比喩です。)
一度目は会えず、二度目はタッチの差で孔明が度に出かけた後であり、
三度目は孔明が庵で昼寝をしている時にようやく会えました。
しかし、玄徳は孔明が昼寝をしているにも関わらず決して
起こして話を聞かせようとはしませんでした。
孔明が起きるまで玄徳は数刻待ち続けました。
周の文王は太公望を得るために、釣りを妨げず止めるまで待ち続けました。
太公望は釣り糸に餌も付けず、空中に糸を垂らしているだけでした。
文王は釣りの途中、太公望に訪ねました。
「今日は何を釣っているのですか」
「天下を釣っている所です」
と太公望は答えました。
太公望は文王に志を感じ彼を助け、周代八百年の礎を築いたのでした。

孔明は感激しました。
自分とは父子程年の差がある人物が自分の元を三度も訪ねて来てくれたのです。
しかも劉備は新野の主君、孔明は一介の農夫。
当時は自分より身分の低い者に腰を低くする事は、この上も無い恥とされていました。
しかし劉備はためらいも無くそれをしました。
あえて孔明は、曹操や孫権に自分の身を売り込もうとはしませんでした。
彼は自分を真に重く用い、志を持っている人物に仕えたいと思っていました。
逆にその様な直向さがあれば曹操や孫権にも彼を用いる事が出来たかも知れません。

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