死せる孔明、生ける仲達を走らす。
2004年12月21日 読書今日、鄭飛石の三國志を読破しました。
鄭飛石氏の三国志は演技ではなく史実に基づいて
描かれた作品なのですが、
(※史実は三国志蜀書、演技は14世紀に羅貫中という人が書いた
三国志演技を指す。)
余りに暗いストーリーに驚きを隠せませんでした。
演技の中では「孔明は全知全能」的な存在で、
その余りある知性を持って、
仲達や魏を恐れさせる存在でしたが、
正史では蜀は弱く、又孔明も天才では無く
凡人の位置取りでした。
蜀ファンにとっては驚くべき事かもしれませんが、
孔明の行った北伐は、第一次が10万、第二、三、四
次がなんと2万、第五次は李厳の諌言によって成らず、
第六次は10万と、あの強大な魏にこれだけの兵力
だけで立ち向かっていったのです。
演技では暗君なだけだった劉禅ですが、
正史の劉禅はそれだけでは納まらず、
父が危篤の時に女を口説いていたり、
孔明を父の様に接しなさいと劉備に言われたのにも
関わらず、孔明を朝廷から遠ざけようとしたり
又、孔明が死去した際には大手を挙げて喜んでいたと言われています。
当然の如く国は乱れ、十常侍が席巻していた後漢の様な
状態になりました。
その中で、孔明は先帝の恩に報いるべく牛馬の
やる様な仕事までしていました。
生真面目な性格の為、劉禅を廃して後漢の劉協(最後の皇帝)
を立てる事も出来ず、命を削る毎日が続くのでした。
最後の北伐の時、劉禅は宦官を遣いとして孔明の元にやり
孔明を平伏させこう言いました。
「北伐を中止し蜀本国へ戻れ。」と言う内容でした。
劉禅にとっては孔明は、北伐による金食い虫
でしか無かったのです。
孔明はこの勅命を一旦は承諾しましたが、
勅命に背き反乱軍として魏に戦いを挑みました。
孔明はキョウ(変換出来ず)維に後を託しこの世を去りました。
享年五十四歳。
天は才ある人に齢を与えず。
余りに報われない最後を終えました。
孔明の死後、大将軍である魏延が朝廷に対して
叛意を剥き出しにし反乱を起こしましたが
関興によって討ち取られました。
この時魏延の槍傷が元になって間もなく
関興も息を引き取りました。
その後は25年間、穏健派の蒋宛らの反対によって
北伐は出来ず、キョウ維もただこまねいてる事しか出来ませんでした。
そしてその間に宦官らが蔓延り、賄賂によってしか動かない
宮廷内になり、もはや取り返しの付かない所まで
来ていたのでした。
キョウ維は北伐軍を興しましたが、
その様な国内の状態では士気も奮い立つ事は無く、
失敗が続きました。
蜀の国力が弱まり呉も朝廷内で内紛が起こると見るや、
司馬昭は蜀に向けて兵を起こしました。
南征はあっけないものでした。
キョウ維率いる精鋭が剣閣に立てこもり
必死の抵抗を試みますが、
魏軍は陰平から攻め寄り、
あっという間に成都を落としました。
キョウ維は晋軍の将と共謀し、反乱を試みますが
失敗して処刑されます。
孔明の息子諸葛センやその息子尚だけは
良く戦いましたが、自軍の10倍の兵力の魏軍に
敵う訳も無く討ち死にしました。
また劉禅の子、シンは降服をこの上も無い
恥とし自害。
又、蜀を滅ぼすきっかけとなった、宦官の黄皓は
洛陽の市中で肉をバラバラに切り刻まれ
死にました。
蜀を平らげた魏は司馬一族に乗っ取られ、
晋となりその勢いで呉をも平らげて、
三国は平定されるのでした。
・
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感想は今後書きます。
・
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追記。覚え書きなので細かい指摘は勘弁して下さい。
鄭飛石氏の三国志は演技ではなく史実に基づいて
描かれた作品なのですが、
(※史実は三国志蜀書、演技は14世紀に羅貫中という人が書いた
三国志演技を指す。)
余りに暗いストーリーに驚きを隠せませんでした。
演技の中では「孔明は全知全能」的な存在で、
その余りある知性を持って、
仲達や魏を恐れさせる存在でしたが、
正史では蜀は弱く、又孔明も天才では無く
凡人の位置取りでした。
蜀ファンにとっては驚くべき事かもしれませんが、
孔明の行った北伐は、第一次が10万、第二、三、四
次がなんと2万、第五次は李厳の諌言によって成らず、
第六次は10万と、あの強大な魏にこれだけの兵力
だけで立ち向かっていったのです。
演技では暗君なだけだった劉禅ですが、
正史の劉禅はそれだけでは納まらず、
父が危篤の時に女を口説いていたり、
孔明を父の様に接しなさいと劉備に言われたのにも
関わらず、孔明を朝廷から遠ざけようとしたり
又、孔明が死去した際には大手を挙げて喜んでいたと言われています。
当然の如く国は乱れ、十常侍が席巻していた後漢の様な
状態になりました。
その中で、孔明は先帝の恩に報いるべく牛馬の
やる様な仕事までしていました。
生真面目な性格の為、劉禅を廃して後漢の劉協(最後の皇帝)
を立てる事も出来ず、命を削る毎日が続くのでした。
最後の北伐の時、劉禅は宦官を遣いとして孔明の元にやり
孔明を平伏させこう言いました。
「北伐を中止し蜀本国へ戻れ。」と言う内容でした。
劉禅にとっては孔明は、北伐による金食い虫
でしか無かったのです。
孔明はこの勅命を一旦は承諾しましたが、
勅命に背き反乱軍として魏に戦いを挑みました。
孔明はキョウ(変換出来ず)維に後を託しこの世を去りました。
享年五十四歳。
天は才ある人に齢を与えず。
余りに報われない最後を終えました。
孔明の死後、大将軍である魏延が朝廷に対して
叛意を剥き出しにし反乱を起こしましたが
関興によって討ち取られました。
この時魏延の槍傷が元になって間もなく
関興も息を引き取りました。
その後は25年間、穏健派の蒋宛らの反対によって
北伐は出来ず、キョウ維もただこまねいてる事しか出来ませんでした。
そしてその間に宦官らが蔓延り、賄賂によってしか動かない
宮廷内になり、もはや取り返しの付かない所まで
来ていたのでした。
キョウ維は北伐軍を興しましたが、
その様な国内の状態では士気も奮い立つ事は無く、
失敗が続きました。
蜀の国力が弱まり呉も朝廷内で内紛が起こると見るや、
司馬昭は蜀に向けて兵を起こしました。
南征はあっけないものでした。
キョウ維率いる精鋭が剣閣に立てこもり
必死の抵抗を試みますが、
魏軍は陰平から攻め寄り、
あっという間に成都を落としました。
キョウ維は晋軍の将と共謀し、反乱を試みますが
失敗して処刑されます。
孔明の息子諸葛センやその息子尚だけは
良く戦いましたが、自軍の10倍の兵力の魏軍に
敵う訳も無く討ち死にしました。
また劉禅の子、シンは降服をこの上も無い
恥とし自害。
又、蜀を滅ぼすきっかけとなった、宦官の黄皓は
洛陽の市中で肉をバラバラに切り刻まれ
死にました。
蜀を平らげた魏は司馬一族に乗っ取られ、
晋となりその勢いで呉をも平らげて、
三国は平定されるのでした。
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感想は今後書きます。
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追記。覚え書きなので細かい指摘は勘弁して下さい。
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